小笠原美都子さんを偲んで
ただいま2019年8月4日 小笠原美都子先生の名簿を預かって、順次皆様にお知らせしているところです。でも、それこそ・・20~30年前の名簿ですから電話番号も違うし、亡くなられた方もおられて半分もつかめないようです。でも、先生とのお話を聞けばみなさん、優しい素敵な方だったと回想されます。でも長生きされ天涯孤独になられてはファンの方たちや私のような者が身近に訪ねなかったら、それこそ呆けるしかなくなるのかもしれません。幸い美都子先生は目もよく読書がお好きでしたし、行けばいつも一緒に歌ってました。人の一生はたかだか100年、そのまるまるを生ききった小笠原美都子さん。誰しも老化し亡くなりますが、美都子先生をみると年をとっても自分なりの楽しみと喜びを保っていることが長生きする意欲につながるのだなとよく分かりました。ありがとう、先生、安らかにお眠りください。
「小笠原美都子さんを偲ぶ会」の御案内
梅雨明けの青空に白い雲が輝くさわやかな真昼、2019年7月25日に、小笠原美都子さんは亡くなられました。5日前の夜中救急で入院され、誤嚥性肺炎でした。しかし前夜も見舞客と病院のベッドで歌い談笑し、当日の朝は静かに眠っておられ痛みは一切なく、枕元のファンの方々の話し声や歌声を聴きながらの大変幸せな大往生をされました。
享年百歳、20才から波乱万丈の華やかな歌手人生を謳歌され、また後年は朝鮮民主主義人民共和国と音楽を通じて日本との友好を深めるために存分のご活躍をなさいました。あらためて敬慕の念と心から哀悼の意を捧げます。 告別式はうちうちですませました。あらためてみなさまとともに下記の要領で”偲ぶ会”を持ちたいと思います。そして小笠原先生の素晴らしき人生にみなさまとともに大いなる祝福を捧げたいと思います。
公私ご多忙とは存じますが、是非ご参席くださいますようご案内申し上げます。
日時 2019年9月7日(土) 午後2時開場 2時30分開始
場所 ホテル アウィーナ大阪(上本町)
〒543-0031大阪市天王寺区石ケ辻町19-12
参加費 千円
問い合わせ: 日朝音楽芸術交流会 090-9056-3621 池辺
事務局 090-8379-7920 シン
小笠原さんのDVDをはじめ、コンサート形式でみなさまとともに先生を偲んでまいりたいと思います。
2019年8月1日
「小笠原美都子さんを偲ぶ会」実行委員会
実行委員会呼びかけ人
日朝音楽芸術交流会会長 池辺幸惠
昭和懐メロ愛唱会 牧内正文 / 昭和クラシックの会 高瀬春彦
神戸市外国語大学名誉教授 家正治
日朝市民連帯・大阪 共同代表 大野晋/長崎由美子/ 顧問 有元幹明
在日本朝鮮人総連合会大阪府本部 委員長 夫永旭
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↑ 2019.3.25 小笠原美都子 99才
<小笠原美都子先生とわたし>
池辺幸惠 2019.8.4
わたくし池辺幸惠は、2012年”4月の春”に小笠原先生の代わりにはじ めて平壌を訪問しました。金日成主席生誕100周年の記念すべき年でし た。自作のアリラン変奏曲を音楽祭で4日間弾かせていただきディプロ マ賞とクリスタルの大山蓮華のトロフィーをいただいてきました。
それまでは3年ほど小笠原先生と特養ホームなどのサロンコンサート の伴奏をしたり、先生のグループホームへの引越しを手伝ったりしてお り、先生を通じて朝鮮への偏見もなく良い印象をもっておりました。そ して先生とご一緒に平壌に行こうとしていたところ、先生が行けなくなっ たので、かわりにわたしと遠山洋子さんの二人で2012年”4月の春”のコンサートに出演すべく行かせていただいたのが、私の初めての訪朝でした。それから今日まで、つごう6回は行ったでしょうか。行くたびに平 壌は目をみはる発展をしていました。
私の最初の訪朝の翌年の2013年の2月には、堺サンスクエアホールで、92歳の 先生を囲んで”歌はわが華”のコンサートをみなで催しました。それから先、先生はずっと西宮市のグループホームで心静かに暮らしておられて、わたしはたびたび訪ねて行きおしゃべりと毎度一緒に歌っておりました。
わたしは何度もの訪朝で朝鮮の人々と交流し、日本でもなにかとおつ きあいをしてきますと、朝鮮の人々の誠実さと生真面目さと情の深さに感心させら れています。それはチュチェ思想という自主自立・以民為天・正義と平和、 一人一人の幸せを願う高邁な思想哲学にのっとっているからかしらと思われます。人民から生まれた革命のリーダーの金日成・金正日主義、いわゆるチュチェ思想を国の根幹としているからだかしらと感じられます。そのチュチェ(主体)思想を政治だけでなく、全てにおいて忠実に規範としている国体なのです。それに、まだまだ建国71年の若い革命国家です。わたしは朝鮮民主主義人民共和国の自主自立の誇り高き真っ当な姿勢を応援しております。
朝鮮は、なにより戦争に向わせる軍産複合体の支配する強者の論理の格差拡大の資本主義に決して毒されず、英米から長年の経済封鎖にもめげず、自主自立・自主努力・創意工夫を重ねて、人民一人一人の幸せを願う朝鮮式社会主義を堅持し育ててきています。その芯の通った国体を人民に依拠し人民とともに養い育てていこうとする朝鮮の政治のあり方は、経済も資本主義の虚構に組み込まれない、GDPでは測れない実体実現・自主経済のあり方を実現してきていると思われます。もちろんソ連が崩壊した当時は、社会主義国はみな大変な目にあい、なかでも朝鮮は自然災害とあいまって大変な苦難の行軍の時期も経て来ました。しかしそれも今ではすっかり乗り越えて地方もともに発展してきています。
自主自立で孤軍奮闘しているかに喧伝されている朝鮮ですが、世界におけるアメリカの自分勝手な覇権をよく思っていないキューバをはじめとする中南米の国々やアジア・アフリカ諸国は、その断固として資本主義 に染まらず自主自立をめざしている朝鮮を尊敬し、互いに尊重しあって 接しているそうです。いまも世界の133カ国と国交があり決して孤立などしていません。わたしの参加した「4月の春」の音楽祭でも、アメリカの合唱団も来ていましたし、ヨーロッパの国々からも世界各国からも音楽家たちがたくさん集まってきていました。
2018年2月の平昌オリンピックは、特に朝鮮が世界に開かれ注目された時でした。以来、金正恩労働党委員長は文任寅韓国大統領と友好を深め南北の交 流も再開してきています。また、朝鮮をイラクと並べて悪の枢軸だと長年拒否し非難して、ひたすら悪意あるプロパガンダをながしていたアメリカでさえ、2018 年6月のシンガポールでのトランプ大統領と金正恩労働党委員長の会談を皮切りに、すでに3回も会談を持って雪解けへと向かってきています。
そんな朝鮮をはやくから愛してきておられた小笠原美都子先生です。なにより先生のお声 は素晴らしく、その広い心のお人柄そのもののようにやさしく暖かく、みなを癒してくださる甘い澄みきったお声です。もうあのすてきな声が 直接聞けないのかと思うと今更に残念でなりません。最後に白寿のコン サートをしてあげれなかったことはわたしの一生の不覚です本当にご めんなさい、先生。小笠原美都子先生は、すばらしい歌声とたくさんの歌のプレゼントをわたしたちに残してくださいました。あらためて胸が 熱く、感謝の思いでいっぱいです。
これからも、小笠原美都子先生の築かれてきた朝鮮と日本の民間交流 が、今後も互いに理解しあい尊重し合える関係へと繋がっていきますよ う、できるかぎりの親善と友好をめざして、この”日朝音楽芸術交流会”を引き継い で活かしてゆきたいものと決意しております。 先生、安らかにお眠りください。先生のご冥福をこころよりお祈りいたします。そして、これまでもこの会を暖かく見守り協力くださったみなさま方に心からの感謝を申し上げます。
合掌
2019年8月4日
日朝音楽芸術交流会会長 池辺幸惠
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ウキペディアより
小笠原 美都子(おがさわら みつこ、1920年(大正9年)3月25日 - 2019年(令和元年)7月25日[1])は、高知県長岡郡大豊町出身の歌手。日朝音楽芸術交流会名誉会長。
経歴[編集]
昭和10年(1935年)、15歳の時に上京し歌を学んだ後、昭和15年(1940年)9月、20歳の時に「花嫁蝋人形」という歌でテイチクレコードよりデビュー。東海林太郎と吹き込んだ「琵琶湖哀歌」は、昭和16年(1941年)4月6日に琵琶湖で起こった第四高等学校漕艇部(現金沢大学)の部員11人の悲惨な遭難事故を悼んで作られた歌である(メロデーは、『琵琶湖周航の歌』を基にして作られて居る)。その年6月にレコードは発売されてヒットし現在でも歌い継がれている。また、同年10月に発表した「十三夜」は、戦後、榎本美佐江にカヴァーされた。他に東海林太郎とのデュエット「九段のさくら」等、テイチクで計二百曲程吹き込んで居る。
80年代には日朝音楽芸術交流会会長に就任し、朝鮮の国際音楽祭などで活躍するなど、朝鮮と中国の友好活動でも知られている。朝鮮国内ではその功績を讃えられ度々表彰されて居る。2000年には最高人民会議常任委員会から「親善第一級」の勲章を受けた。2014年まで日朝音楽芸術交流会会長を務めた。 近年でも、テレビ東京の「昭和歌謡大全集」に出演するなど健康的な姿を見せていた。 2013年2月 92歳ながら、堺市のサンスクエア堺の大ホールで、朝鮮学校支援のチャリティーコンサート「歌はわが華」を周囲の支援で開催し、朝鮮語での歌も2曲まじえて6曲を歌った。
現在日朝音楽芸術交流会会長はピアニストの池辺幸惠がひきついでいる。池辺は2012年4月に訪朝し<4月の春国際親善芸術祭典>に参加し、自作の"アリラン変奏曲"の演奏により受賞。以来朝鮮の理解と交流・支援に深く携わり、朝鮮共和国への偏見と誤解、在日・朝鮮学校への差別をなくすさまざまな活動や、それらの主旨と反原発と9条を守る歌とピアノとスライドショーの"平和コンサート"を催している。
2019年7月25日、肺炎のため死去[1]。99歳没。
代表曲[編集]
みのる秋(昭和15年11月)
伊那のふるさと(昭和16年4月)
琵琶湖哀歌(昭和16年6月)共唱:東海林太郎
十三夜(昭和16年10月)
夢の砂漠(昭和16年11月)
若草哀歌(昭和17年7月)
九段のさくら(昭和18年3月)共唱:東海林太郎
アユチャの町(昭和18年5月)
すみだ川(昭和18年11月※東海林太郎「銀座尾張町」片面)
輝く翼(昭和21年)共唱:榎本美佐江
名残の月影(昭和22年)
たけくらべ(昭和23年)
恋し鳥(昭和26年)
みおつくしの鐘(昭和30年)
平壌慕情
平壌讃歌
投稿: 池辺幸惠 | 2019年8月11日 (日) 06時34分