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2020年3月18日 (水)

笛を配る人(5) 「幸運」

        「幸運」

こんなに長い間医師としてやってきて、どんな困難でも私を打ち倒す事はできないとずっと信じてきた。これは私の性格や経験と関係がある。

9歳の時、私の父は胃がんで亡くなった。その時から大きくなったら医者になって誰かの命を救いたいと思っていた。大学入試のとき私は医学部だけを志望校として書き込み、最終的に同济医学院に入った。1997年に卒業し、中心病院に入った。当初は心血管内科にいて、2010年に急診科に配属になり主任になった。

私にとって急診科は私の子供と同じで、私がこんなに大きくなるまで育てたし、みなを団結させたのだという気持ちがある。それは簡単な事じゃないし、だからこそこのグループを得難いものだと思っている。

数日前、急診科の看護師のひとりがモーメンツに「以前の忙しい急診科が懐かしい」と書き込んでいた。その「忙しい」と今回の「忙しい」とは全く別物だ。

この疫病の前、心筋梗塞、脳梗塞、消化器出血、外傷といったものが我々急診科が診るものだった。こうした忙しさも勿論忙しいのだけど、目的は明確だし、それぞれの病気に応じてこうすべきというプロセスとアプローチが確立されていた。次になにをするべきか、どうするのか、もしトラブルがあった時は誰に聞けばいいのか…など。しかし今回はこんなに多くの重篤な患者がいながらどうする事も出来なかった。入院させることもできなかった。我々医療スタッフ感染のリスクも高い中、こうした忙しさは本当にやるせない、心が痛むものだった。

ある日朝8時に急診科のちょっと性格に癖のある若い医師がwechatで「今日はちょっと調子が悪いから出勤しません」メッセージを送ってきた。我々の規則はかなりかっちりしていて、もし体調不良なら事前に申し出る必要がある。8時になってから言われても代わりをどうやって探したらいいのかと私は言った。すると彼は怒り出して、たくさんの感染が疑われる患者があなたの率いる急診科によって社会に追い戻されている!これは罪に他ならない!などと言った。私も彼の言葉が医者としての良心から発せられたことを知っていた。しかし私もじれていたので、じゃあ私を訴えればいいじゃない?逆にあなたが急診科の主任だったらどうしたというの?と答えた。

その後この若い医師は数日休み、普通に戻ってきた。彼も死ぬのが怖いとか疲れたくないとかそういった事を言っていたわけではなく、このひどい状況の中で、一気にこんなに多くの患者たちと向き合って、心が折れそうになっていたんだと思う。

医者として、とくに後から支援にきた多くの医師たちからすれば、こうした事はまったく受け入れがたかった。医師や看護師の中には泣いている者もいた。誰かのために泣く人も、自分のために泣く人もいた。自分にいつ感染する順番がまわってくるのか、誰もわからなかったから。

一月の中旬か下旬くらいになって、院内の上層部が次々に病に倒れた。私たちの外来診療事務室の主任や三人の副院長も含まれていた。医務課課長の子供も罹患し、彼自身も家で休んでいた。その時期は基本的に誰も他の人になんて構っていなかった。それぞれ自分の持ち場で闘え、といった感じだった。

・・・・

私の周りの人たちもひとり、またひとりと倒れはじめた。1月18日朝8時半、最初の医師が罹患した。彼は「主任、どうやら僕は当たってしまったようです」と私にいった。熱はなかったがCTを撮った所肺はすりガラスのようになっていた。それから少しもしないうちに、隔離病棟を管理する責任者の一人の看護師が自身も感染したと伝えてきた。夜になって、我々の看護師長も感染した。その時の私の最初の気持ちは、ああこの人たちは運がいい、早い時期に倒れればその分早く戦場を離れる事ができるといったものだった。

この三人すべてと私は濃厚接触していた。だから私はいつか必ず倒れると思いながらも毎日仕事をしていたけれど、結局感染する事はなかった。病院のすべての人は私は奇跡だといった。自分で考えてみたが、ひょっとすると私は元々喘息持ちで一種のホルモン剤のようなものを吸引していたので、ウイルスが肺の中に溜まる事を防げたのかもしれない。

・・・・

私はずっと急診科のひとたちは皆医師としての想いが強い人たちだと思っている。中国の病院において急診科の地位は全ての診療科のなかで低いと言わざるを得ない。それはみな、急診科を単なる通路でしかないと思っていて、患者を受け入れるだけの役割しかないと思っているからだ。今回の災禍の中でも、このような蔑視はずっとあった。

最初のころは物資が足りないからと急診科に配られる防護服にはとても質が低かった。私のチームの看護師たちがそうしたひどい防護服を着て仕事をしているのを見て私は怒りを覚え、週会のグループの中でキレた。その後ちょっとだけ状況はよくなり、多くの部門の主任たちは自分たちの部屋にしまってあった服を私たちに届けてくれた。

また、食事の問題もあった。患者が多い頃管理も非常に混乱していて、彼らは急診科のスタッフがご飯を食べていない事に思い至らなかったりもした。多くの診療科は仕事を終えたあと飲んだり食べたりするものがずらりと用意されていたが、私たちにはなにもなかった。発熱外来のwechatグループの中である医師が「私たち急診科にはおむつしかない…」と恨み言を言っていた。私たちは最前線で闘っていた。しかし結果はこのざまだ。時には心には何ともいえない怒りを覚えることもあった。

40人以上が感染した。私は感染したスタッフを集めてwechatグループを作った。本当は「急診科発病群」と名付けたけどある看護師がちょっと不吉だと言うので「急診加油群(訳注:加油=がんばれ、またここでは補給のためにひと時休憩中の意か)」とした。発病者たちも必要以上に悲しんだり絶望したり恨み言を言ったりといった事はなく、積極的にお互いで助けあい、みんなでこの難しい局面を乗り切ろう、というような雰囲気だった。

この子たちははとても良い子だ。しかし私についてきたことで、時に不当な扱いを受け悔しい思いもした。私もこの災禍が過ぎ去ったあと、国が急診科にたいしてもっとリソースを投入してほしいと願っている。多くの国の医療体系において、急診のプロは非常に重視されている。

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