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2020年3月18日 (水)

笛を配る人(3) 周りの科

      周りの科

多くのひとが私もまたあの8人の1人として叱責を受けたのではないかと心配していた。実際のところ私は公安局に叱責を受けたことはない。後になって友人に「あなたは笛を吹いた人なのか?」と聞かれた時私は「私は吹いていない、ただその笛を配っただけよ」と答えた。

しかし、あの事情聴取のショックは大きかった。非常に大きかった。倒れ込んでしまいそうで本当に衝撃が大きく、心が崩れ落ちそうになった。真面目に仕事をしていて、あとで多くの人に問われても、私はなにも答える事ができくなったのだ。

私にできたのは、まず急診科に防備を重視させることだった。我々急診科には200人以上のメンバーがいたが、1月1日から後は皆に防備強化を呼びかけ、全てのメンバーがマスク、帽子着用を必須とし、手指の消毒も行うようにした。ある日引継ぎの時に男の看護師がひとりマスクをしてなかったのを見て、その場で「今後マスクをしていないならば仕事に来る必要はない」と叱りつけたのをよく覚えている。

1月9日、仕事を終えて帰る際、受付にいる患者が皆のいる場で咳をしているのを見た。その後、私は来院患者もマスクをするようにと要請した。1人に対して1つのマスク、今この時期はカネを惜しむべきではない。
その時まだ外ではヒトヒト感染について語られてはいなかったが、私はここでまたマスクをして防備をするようにと強調していた。これは矛盾にみえただろう。

その時は非常に憂鬱で、つらかった。ある医師が隔離服を着て外に出ようとしたが院内の会議で「外でそうした服を着ていることを見られたらパニックになりかねない」という理由で却下された。私はみなに白衣の下に隔離服を着させた。これは本来の規則違反だし、でたらめな話だ。

私は何もできずに患者が増えていく様子を見ていた。もともとは華南海鮮市場付近が感染エリアだったものが、感染、感染の繰り返しでどんどんその規模は大きくなっていった。多くは家庭内感染で、初期の7人のケースだと、母が子供に食事を届けて感染したという例まであった。診療所の経営者が感染したのは来て注射を受けた患者からうつったもので、いずれも重症だった。その頃私はヒトヒト感染を確信した。もしヒトヒト感染がないのならば、華南海鮮市場が1月1日に閉鎖された後でもなぜ患者が日増しに増えていくのだろうか?

多くの時私は、もし彼らがあの時あのように私を罵らなければ、穏やかにこの件の経緯について問い、他の呼吸器科の専門家とも話し合うことができて、そうであればもう少し状況は良かったかもしれない。少なくとも私は院内の別の医師と意見を交換する事ができただろう。もし1月1日の時点でみながこのように危機意識を持っていたら、このような悲劇は起きなかったのではないか。

1月3日午後、南京路院区で泌尿器外科の医師が集まり、共に引退した主任の功績を振り返っていた。参加していた医師胡卫峰は43歳で、現在緊急処置中だ。1月8日午後、南京路院区の22号棟では江学庆主任が甲状腺乳腺外科患者の回復お祝い会を開こうとしていた。1月11日朝、科のスタッフから急診科の緊急処置室の看護師胡紫薇が感染したと報告を受けた。おそらく中心病院で感染した最初の看護師だろう。すぐに医務課課長に電話して報告し、病院では緊急に会議が開かれた。会議の席上「両下肺、ウイルス性肺炎?」というタイトルだった報告書は「両肺に感染が散在している」という風に変えるように指示された。1月16日最後の一週の会議にて、ある副院長が「みなもっと医学常識を持った方がいい。経験が長い医者はこのようなことでいたずらにパニックを起こすべきではない」。他の幹部も「ヒトヒト感染はない、防ぐことも治すこともコントロールすることもできる」とまだそんな事を言っていた。その翌日1月17日江学庆は入院し、10日後挿管、人工肺を装着する事になった。

中心病院が払った代償はこのように大きかった。これは我々医療スタッフに対して情報が適切に公開されていなかったというに関係する。急診科も呼吸器科もそこまでひどい状況にならなかったのは防御意識があったことと、発病した場合すぐに休ませ治療を受けさせたことが大きい。深刻だったのはその周りの科で、例えば李文亮は眼科、江学庆は甲状腺乳腺科だった。

江学庆は本当にいい人だった。高い技術を持ち、中国医师賞を取った全病院の中の2人しかいないスタッフの1人だった。そして彼は私のご近所さんで、私は40何階に住み、彼は30何階に住んでいた。すごくいい関係だったけど普段は二人ともバタバタしていて打ち合わせや病院院内イベントの時に会うだけという感じだった。彼はワーカホリックで、大体は手術室にいるか、もしくは問診していた。誰もわざわざ彼に「江主任、気を付けてください、マスクをつけてください」などとご忠告する者はいなかった。彼自身もわざわざそういう事に注意を払う余力もなかったし、「何の関係がある?単なる肺炎だろ?」という感じの態度だったと同じ科の人が言っていた。

もしこうした医師たちがきちんと注意喚起をされていたら、ひょっとしたら今日のような日は来なかったかもしれない。だから、私は当事者としてとても後悔している。もしこのような事になると知っていたら、誰が私を批判しようとしなかろうと、「俺様」はどこででも言っただろう、そうでしょう?

李文亮とは同じ病院に所属していたけれど、病院は大きく4000人以上のスタッフがいるし平時は忙しいので、亡くなるまで面識はなかった。彼が亡くなったその日、ICUの主任が電話をかけてきて急診科にある心臓与圧器を借りに来た。李文亮に緊急処置が必要だと言う話を聞いて非常に驚いた。彼の事情について了解はしていなかったが、彼自身の病状と彼が叱責を受けた後の心と関係はないのだろうか?ここに私は疑問符を打たざるを得ない。叱責を受けたという事がどういうことか、自分も身をもって味わっているからだ。

後になり様々な事情が明らかになって李文亮の行為が正しかったとわかった頃、私は彼の心情をよく理解できた。私と多分一緒で、興奮でも喜びでもなく後悔、もっと大きな声をあげるべきだったという、質問してきたすべての人たちに言い続けるべきだったという後悔だろう。何度も何度も、もし時計の針を戻すことができたらもっとよくできたのにと思った。

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