« 笛を配る人(3) 周りの科 | トップページ | 笛を配る人(5) 「幸運」 »

2020年3月18日 (水)

笛を配る人(4) いきてさえいれば、それでいい

生きてさえいれば、それでいい

1月23日に武漢の街が封鎖される前の晩、政府の関係部門の知人が武漢市における急診患者の真実の状況を聞いてきた。私はその人にあなたは私人として訊いているのか、それとも政府の立場としてなのかときいた。彼は私人として訊いていると告げた。私はならば私も個人として本当のことを話そうといって、1月21日、急診科は平時の最も多い時の3倍にあたる1523人の患者を診て、その中で発熱者は655人いたと伝えた。

急診科のその時の光景は、それを経験したものにとって一生忘れることはできない、ひとの人生観すべてを根底から覆すものだった。

戦争に例えるのならば、急診科はまさしく最前線だった。しかし当時の状況と言えば病棟は既にいっぱいで一人も入院させることはできず、ICUも未感染の患者がいるからもし受け入れたら内部が汚染されてしまうと言って受け入れる事ができず、患者は絶えることなく急診科を訪れ、後ろの道は通れなくなり、結局そのすべての患者たちが急診科の前に折り重なっていた。

診察を受けたくて来たとしても列に並んだら数時間並ぶ必要があり、我々もずっと仕事を終えられなかった。発熱外来と急診もわけることができなくなり、ホールにも患者が溢れ、緊急処置室も輸血室もどこも患者であふれていた。

家族と一緒にくる患者もいて、例えば「私の父が車の中にいてこちらに来ることができない、タンカが必要だ」と訴える家族がいた。その頃地下駐車場は既に封鎖されており、彼らの車も敷地に入ってこれなかったからだ。しかし私にもどうする事も出来なかった。人を連れて道具をもって車のところまで駆け付けたが一目見てもう亡くなっているとわかった。もしどんな気持ちだったかと聞かれれば、とても…とても受け入れがたい、つらいとしか言いようがない。この人は車の中で死ななければいけなかった。車を降りる機会すら与えられなかったのだ。

またそれ以外にも奥様を金银潭医院で亡くしたばかりのとある老人の患者がいた。彼の子供たちも感染した。点滴している時子供たちを見ていたのはその娘婿だったが、私がその子たちを見た所すぐに症状がかなり悪いことがわかった。呼吸器科にすぐに連絡して入院させた所、一目見て教養のありそうなその娘婿はこちらに歩いてきてお医者様ありがとうなどといったけれど、私は早くいきなさい、時間を無駄にしてはいけないと送り出した。
しかし結果的にこの子も亡くなった。「谢谢(ありがとう)」と一言いうのは数秒の時間だけれど、その数秒を無駄にしたことでこの命は失われたのだ。この「谢谢」は私を本当に打ちのめした。

他にも多くの人が家族を緊急処置室に見送り、それが彼らが会う最期の一回になった。二度と会えないのだ。

・・・・

大晦日(旧暦最後の日、20年は1月24日)の朝、出勤した時、大晦日を祝ってみんなで写真を撮り、wechatのモーメンツに投稿した。その時誰もおめでとうなんて言わなかった。生きてさえいれば、それでよかったのだ。

普段ならもしあなたがちょっとしたミスをして、例えば時間通りに注射をしなかったとしたら、患者はひょっとしたら文句を言ったり騒いだりしたかもしれない。いまとなっては誰もいない。誰もあなたに喧嘩をふっかけないし、誰も文句など言わない。みんな突然の打撃に打ちのめされている。

患者が亡くなった時、親族が傷心のあまり泣き暮れるのを見ることは少なかった。亡くなる人が多すぎた、あまりに多すぎたからだ。「お医者様お願いだから家族を助けてください」という人もいなかった。逆に医師たちに「もう既に助からないなら早く楽にしてやってください」とさえ言った。このころ、みな自分も感染することを恐れていた。

ある日、発熱外来の入り口が列になっていた。5時間も待たなければならなかった。その時並んでいた女性がひとり倒れた。レザージャケットを着てハイヒールを履き、バッグを背負っている様子から、洗練された中年女性の様子だった。でも誰も彼女を助け起こす勇気がなかった。だから彼女は長い間そこに横たわったままだった。私が気づいて看護師と医師が助けるまでずっと。

1月30日の朝病院にきた時、ある白髪の老人の32歳の息子が亡くなったというので、その死亡証明を受け取りに来ていた。彼は医者をじっと見つめていたが、まったく涙を見せなかった。どう泣ければいいのか?それすらわからない様子だった。身なりを見るとおそらく外地から来た日雇いの人という感じだった。きちんと確定診断をしてもらうこともなかった彼の子は、一枚の死亡証明書という紙切れに変わってしまった。

これも私が言いたかったことだ。急診科にきて亡くなった多くの人は診断を受けることすらできないままに亡くなっていった。この嵐が過ぎ去ったら彼らに説明をしたいと思う。彼らの家族に少しでも慰めを…患者たちはかわいそうすぎる。あまりにかわいそうだ。

« 笛を配る人(3) 周りの科 | トップページ | 笛を配る人(5) 「幸運」 »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

2020年3月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
無料ブログはココログ